俗世で修行

教会のシスター、寺社の尼さん、本だらけの書斎で哲学者、その辺りで世を儚んで生きて行こう、どうせ私モテないんだし。



と、小学生くらいのころに自分の見た目コンプレックスやひね曲がった性格や、人との関わりが下手くそなこととか見越して、展望していた。

その3つのどれかなら流行りを身に纏わないシンプルライフだろうし、ご飯も少なめで朝から晩まで祈ったり研鑽し続けて日々を終える…最高だ!と思っていた。

実際、寺の嫁候補になった時、リアルに冬の寺の寒さの厳しさとか、広々とした境内のお掃除の大変さとか、世継ぎのことや檀家さんとの付き合いとか、もろもろ想像したら怖くなってやめた。

(いや、断られたんだっけ?)

とはいえ、中学時代にちょっと変わった環境にいた影響もあって、

俗世では煩悩まみれに生きよう!的な部分も出てきたんだけれども。

ある時うちの(お墓のある)お寺のおしょさんが、この世で修行、あの世で修行なんですよー、って大好きなお酒飲みながら話していて、

それ聞いてふむふむと噛み砕いた辺りから

別に教会やお寺や本だらけの書斎にいなくても、お修行はできるんだ、へぇー、そっか。なら今のままでいいんじゃん。

って思っている。

純粋に、祈るとか、講話するとかそういう高尚なことをするには、シスターとかおしょさんとか肩書きが必要だし、環境も要るかもしらんけども、

私が頭でぐるぐるしたり、悩んだり、解決したり、人に聞いたり、ぼーっとしたり、時々ひらめいたり、誰かに「助かったよ、ありがとう」と言われたり、することが日々の修行の一環ならば、

生活しながら、悟りに近づけばいっか。

というスタンスになってきました。

20代ではそこまで思えんかったけども、40目前の今だからすとんとお腹におちるのかな。

あのころ、行き先が見えないでもがいて泣いて苦しんでいた自分に、

背中ぽんぽん叩いて、よーしよしよし。よく悩めよー、よく泣いておきなさーい。と励ましてやれるかな、今なら。

ああ、ちょっとずつ成長してるかな。背伸びしながら、人の背中見ながらなんとか、前に上に進もうと思うよ。

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